さつま通信

2011年5月22日日曜日

第6章002:オレンジビーチ - スリーデイズメイビー


 沖縄に咲く避寒桜の色は濃い。比嘉は内地の桜をまだ見たことがなかったけれど、大阪で働いている伯父が帰郷した際に、そのえもいわれぬ淡く心に沁み入る色彩と、春風に舞い散る可憐な美しさを繰り返し聞かされたことで、ひとつのイメージができあがっていた。家の書棚に置いてあったアサヒグラフに載っていた吉野の桜への憧れは強く胸に焼き付いていたし、まだ見ぬ内地の大都会の桜や、本でしか知らない桜吹雪のはかない美しさに早くふれてみたいと心のどこかでいつも思っていた。

 いつか俺も、まだ知らない世界へと旅に出よう。これまで経験したことのない暮らしの流れと、故郷とはまるで違う言葉を話す人々の中へ入っていきたい。みんなに受け入れてもらえるだろうか?暮らしのリズムに馴染めるだろうか?話や本でしか知らない別世界がそこにはあるのかもしれない。あの美しい桜を仰ぎ見て、風に舞う花びらを掌に受けとめながら、子供の頃から抱き続けてきた憧れを胸の奥から空へと高く解き放ってやることができるだろうか?

 いつのまにか、まるで真夏の真昼のような清浄な白が、周囲のすべてを溢れるような輝く豊饒な光で満たしているビーチに比嘉は一人きりで佇んでいた。

 純白の強い光がとても眩しくて思わず額に手をかざした。

 見回しても誰もいないが不思議と寂しさは感じなかった。ふと気づくと麻の半ズボンにランニングシャツだけの服装で武装は何ひとつしていない。

 遙かな沖から静かに重なり合いながら寄せてくる波は、リーフで砕けてから浜に打ち寄せてくるのに音がまるでしない。水平線の彼方でトビウオが跳ねても、水音がここまで聞こえるのではと思えるほどの静寂が支配する世界。

 これまでの自分を包みこんでいたあらゆる不安や怒りと未練、尽きぬ焦燥と煩悶が、甘美で優しく思いやりと慰めに満ちた心和む慈愛の波動で雲散霧消していくのが全身にはっきりと感じられ、言い尽くせぬ懐かしさと安息への深い希求が、母の膝の上にいるような限りない安心と満ち足りた静謐とに包まれて水平線まで大きく広がっていくのが感じられた。

 不思議な安堵感に満たされて思わず砂浜に腰をおろすと両肩が誰かにふれあった。ゆっくりと左右を見ると兄達が座っていた。二人ともいつこここへ来たの?聞こうとしたが口が動かずに言葉がまるで出ない。長兄も次兄も出征した時のままの真新しい軍装で微笑んでいるだけで口を開こうとはしなかったが、また一緒に話そう 最後まで落ち着いてしっかりやるんだぞ 俺達が守ってやるからな と、抱きつきたいほどに懐かしい兄達の声が交互に胸に響いてきた。

 言葉にできない言葉が、言葉以上のいとおしい気持ちの深い交わりとなって兄弟の間を行き来しているようだった。

 涙が不意に溢れた。俺、入営してからずっと、にいちゃん達の声が聞きたかったよ。もう会えないのかと思ってた。肩があったかいよ また三人で一緒に、暑い夏の昼下がりに涼しくてやわらかい風が吹き抜ける縁側で昼寝しようね。今は誰もいないから泣いてもいいよね?俺はこれまで軍隊でどんなにイジめられても泣いたことは一度もなかったけど、もう一度にいちゃん達に甘えたくてしかたがなかったんだ。今は泣いてもいいよね?

「比嘉 比嘉 時間だぞ」 耳元で、沖 兵長の声がした。

 目覚めると、彫りが深く眉の濃い精悍な沖の瞳が間近で微笑み、比嘉の右手をしっかりと両手で優しく握りしめながら軽く動かしていた。

「ご奉公の時だ。故郷の武勇をアメリカに思い知らせてやろう」

 よし と立ち上がって膝の屈伸を数回すると、それぞれが重くうずくまる機雷に取り付いて運搬にかかった。もう迷いは誰にもなく、ただひたすらに敵艦爆砕の任務に邁進するのみだった。

 全員で協力して慎重に砂浜に機雷を移動し、なんとか海中に搬送を終えたが、各自がロープで機雷を引いて泳ぎ出すと、潮流が強くてとても最初から一人での攻撃は無理なことがわかったため、敵艦へ向かう沖への流れに機雷を乗せるまでは二人で引き、単独で前進が可能になるポイントまで持って行くことにした。

 幸いにもまだ、この方面へはそれほど頻繁に照明弾を打ち上げてはこない。比嘉伍長は、沖 兵長と機雷を引いて泳ぎながら、ぼんやりと海上にシルエットを浮かべている敵艦を波間から時々見つめた。

 あいつらが正確に撃ってきたら粉微塵だ。頼むからあとしばらくおとなしくしててくれよ。

 リーフのやや手前の線まで二人組で機雷を引いて往復し、どうにか単独搬送ができる態勢を完了するまで思ったよりも時間がかかったが、十七名全員がみごとに攻撃準備をやり遂げた。

 適度な機雷間の距離を保持しなければならないために、一度展開してしまえばもう戦友の顔は見えないし言葉を交わすこともむろんできない。

 比嘉は、沖 兵長の引く機雷が遠ざかっていくのを波に身を委ねながら見送った。二人でロープを引いて泳いだあとで機雷の位置を確かめると「よし これで大丈夫だ。比嘉 しっかりやれよ じゃあ行くぞ」と、彼の右肩を一瞬強くつかんで微笑むと身を翻して沖は自らの機雷へと泳ぎ去っていった。

 薄い月明かりに兵長の頭が次第に小さくなり、機雷が黒く波間に見え隠れしながら次第に遠くなっていくのを見送りながら、比嘉は思わずちぎれるほどに手を振った。

 よし行こう。比嘉は我に返って呟くと気を引き締めて敵艦目指して泳ぎ始めた。

 時折雲間から顔を出す南の月は、ひたむきに自らの死へと向かって泳ぐ若者達を、まるで懐に抱いて慈しむような表情で見おろしている。夜風に乗って敵艦から微かにジャズが流れてきた。もう勝ったつもりなのか!今に見ていろ。比嘉は突き上げるような敵愾心が煽られるのを感じ、全身に力を漲らせて歯を食いしばって泳いでいった。

 エンジン音は響いてこない。機関停止をしてアンカーを打っているらしく、探照灯を時折回しはしているが、照らす間隔から見ても真剣に警戒している様子には見えない。

 確かに上陸支援の敵艦艇群は油断していた。上陸部隊から入った最新の通信では、上陸当初こそ味方は予想外に甚大な被害を被ったが、今はもう飛行場を制圧し残敵掃討の段階に入ったらしい。日本機は組織だった攻撃はかけてこないし接近する艦艇も皆無だ。空にも海にも、チビでガニ股のジャップ共の影はほとんどない。あとは奴らが例によって夜にお決まりの自殺攻撃を大規模に仕掛けてくるのを待ってから死体の山を築いて片づけてやればこの島も終わり。先に戦った者達から聞いていたとおりの展開だし気楽な戦争だぞ これは。

 停泊する上陸支援艦艇の乗組員達にはそんな楽観の色が濃く漂っていて、搭載機銃に着いている射手や無線機を操作する通信手達、機関部や操舵部に所属する兵員達も、また艦長ら士官の間にさえ、何かこのまま陸上部隊の支援を続けていれば攻略戦はじきに終わるようなそんな気分が広がっていた。

 波の音に入り交じって風が運んでくるジャズの音が次第に大きくなってくる。うねりが少し出てきた。このままではせっかく維持してきた進路が・・と比嘉が思った刹那、闇を轟音が切り裂いて一個の機雷が大きな水柱を吹き上げて爆発した。

 機雷がリーフに接触して爆発したらしい。支援艦艇群に緊張が走り、騒がしい声が飛び交ったかと見る間に銃撃が四方八方から爆発箇所の方向へ始まって、夥しい曳光弾がリーフ付近へ光の束となって吸い込まれ、てんでにエンジン音が響き始めた。

 しまった!これで探照灯が一斉にあたりの海面を舐めまわし始める。船にたどり着く前にやられるのか!

 比嘉がそう思った瞬間、重く轟く爆音と共に夜空から舞い降りてきたフロート付の一式水上偵察機が2機、まるで月が差し出す金色の甲冑をまとった武者のように荒々しく飛びながら艦艇群へ迫って銃撃を加え始めた。不意をつかれた艦艇は気が狂ったように探照灯を交差させて飛行機を捉えようとし、めったやたらと機銃掃射を始めて大混乱に陥った。

 比嘉から見て二時の方向で立て続けに機雷が爆発した。銃撃によるものか、リーフに触れたのかはわからないが艦艇を捉えたものでないのは敵とのおおよその距離からしても確かなように思われた。

 水上偵察機は猛烈な機銃火をかいくぐって飛び去っては舞い戻り、舞い戻っては飛び去りつつ、海面すれすれを這うように飛びながら繰り返し艦艇群に激しい銃撃を浴びせ続けている。艦上の何かに引火したのだろう、燃え上がる艦艇が数隻出始めて炎が青白く海面を照らした。

 突然に夜空から舞い降りてきた二羽の鳥は、日輪を描いた翼を広げ鋭い爪を大きく剥いて怒りに燃えながら敵を浮かべる海へ襲いかかっていた。

 消火作業と対空戦闘に忙殺されて海面への警戒が疎かになっている一隻の艦艇を、比嘉は十時方向に素早く見定めると、注意深く回り込むようにして海面が火災に照らされずにほの暗いままの方向へ位置すると落ち着いて敵への接近を開始した。

 比嘉が肉迫する逆方向から友軍機は超低空で銃撃を加えてきている。船の全神経は迫ってくる飛行機へ向いていて後方への目はほとんど機能していないように思われた。

 頼むぞ!俺に気づくなよ!もうすぐで一発轟沈だ。

 またどこかで機雷が爆発。今度は艦艇が炎上するのが見えた。攻撃成功だ。誰だろう?よくやったぞ。沖 兵長かな?俺も負けられない、ともかく船に着けてから叩かないと意味がない。

 一息入れながら機雷をたぐり寄せていると、後方の海面の一点に数隻の探照灯が光の帯を束ねたと見る間に一斉射撃が集中されて轟音と共に機雷が数個爆発するのが見えた。間髪を入れず、やや斜め後方で腹に響く衝撃と共に艦艇が大きな水柱と敵兵の悲鳴を残して粉微塵になった。また攻撃成功だ。

 上空の爆音はまだ轟いている。二機共に健在であってくれと比嘉は思った。

 ありがとう もういいよ じゅうぶんに奴らを引きつけてくれたから。もういいよ もう帰ってくれ 俺の目の前で撃ち落とされるのは絶対に見たくないから。嬉しかったよ すごく嬉しかった。ありがとう、負けないよ 俺も絶対。

 突然に吹きこぼれるように涙が溢れた。俺は一人じゃなかったんだ。来てくれた。助けに来てくれた。日本の飛行機が来て戦ってくれたんだ。

 やっぱり俺は一人じゃなかった。

 死なないでくれ 頼むよ 俺達が死んだ後も戦いは続いていくから。最後まで大空に日の丸を輝かせて舞い続けておくれよ。

 ありがとう!あんまり嬉しくて、恥ずかしいけど涙が止まらないよ。本当にありがとう。

 目前に艦艇が迫ってきた。黒く大きな壁のような船腹が揺れ、そこには水着で寝そべりながらウィンクする若い女の絵が派手に大きく毒々しい色彩で描いてあった。

 真上の艦上に人の気配がしたので比嘉は素早く潜った。しばらく海面を見下ろしていた兵士は艦橋へと立ち去っていった。

 長く潜っていてから、仰向けにそっと顔を出した比嘉は、大きく息をつくとまたロープをたぐり始めた。目標艦艇までもうあと十メーターもないところへ機雷は引かれてきている。

 たぐりながら艦上の気配をうかがう。ジャズはさすがにもう聞こえてはこず、兵員が慌ただしく行き交う様子が緊張を漲らせて伝わってきた。

 重い機銃の発射音が間断なく響いて、敵は友軍機を狙ってめったやたらと撃殻薬莢をばらまき、船上から溢れた薬莢が滝のように舷側の海にこぼれ落ちていた。微速前進はせずに現在地で停止したままの射撃を続けているようだ。

 見つかるなよ 早くここへ来い そんな思いで見つめながら懸命に機雷を引き寄せ、比嘉は最後の力を振り絞るようにして懸命にロープをたぐり寄せていた。

 月が雲間に隠れ、闇が海面を覆った。爆音が遠ざかっていくのが感じられ、艦上の動きがまた騒がしさを増した。おそらく被弾箇所を調べ、損害を掌握して報告しようとしているのだろう。比嘉は目標艦艇上の動きにも注意を払いながら、あと僅かな距離になったというのに潮の流れに邪魔されて思うに任せない機雷の重みと格闘していた。

 どうしたんだ?ここまで気づかれずに来たというのになぜ潮が邪魔するんだ?月が隠れてくれているうちに攻撃したいのに。

 機雷へ近づいて違う方向から力を加えようかと迷いながら、いったん艦を離れようとした時に、目の前に立っている人影に比嘉は気づいた。二人の兄と、沖 兵長が不思議にも海面に立ったまま微笑んで見下ろしていた。

 三人共、通常の軍装をしてにこやかな表情を浮かべている。おい 和平 何をもたついてる?しょうがないなあ。ちょっと力を貸してやるか。そんな懐かしい兄達の声が胸の奥に響いたような気がすると、ロープが急に軽くなって機雷をまた元通りにたぐり寄せられるようになった。

 二人の兄達と沖 兵長が見守ってくれるなかを比嘉は機雷をたぐり寄せた。目の前に引き寄せた機雷の信管打撃位置を確かめるとハンマーを慎重に取り出す。艦の腹をもう一度見上げると、いつのまにかあの若い女の派手で毒々しい絵は消えていて、替わりに比嘉がこれまでまだ直には見たことのなかった、郷土の避寒桜とは違って薄く淡い色彩の桜が一面に咲き誇っているのが瞳に映った。

 ああ なんてきれいで胸に染み入る優しい色彩だろう。これまで胸に思い描いていたとおりの美しさだ。ここへみんな来ればいい そうだ 友達も両親も兄弟も戦友も、そして、秘かに気になり始めていたあの子も、みんなでこの木立の下へ走って来ればいいのに。

 ここで俺と踊ろうよ 唄おう 一緒に 俺達の唄を 潮騒のようにいつまでも終わらない唄を、楽しく伸びやかに明るく、生きる喜びを精一杯にこめて。

 桜が散り始めた。目を奪う艶やかな吹雪のように海に降り注ぐ。

 それはまるで、劫初からの美しい予言が今、若者達の手によって成就されるのを尽きぬ哀惜を込めた慈愛のまなざしで祝福し、これから紅蓮の焔を上げて冷たく浄められた久遠の道に歩み入ろうとする彼らの高貴な魂を抱擁しようとするかのようだった。

 至高天へと捧げられる若い命を、海は繊細で可憐な指先で包み込みながら限りない優しさで引き寄せ、果てのない懐深くへと誘い、たおやかに鎮めて眠り込ませようとしていた。

 比嘉は、海に舞い落ちる美しい桜吹雪の中に陶然と浮かんでいた。祖父におぶわれて歩いた港へ続く小道の風景や、心躍るハーレーの喧噪、祭の後に捧げられる祈り、朝の食卓、学友達とてんでに連れ立って、真っ白に光る海で体を青く染め上げるほどに思い切り遊んだ夏休みの午後、兄達と戯れた浜辺の白い砂、いつも教室に響いていたオルガンの音色と白墨の匂い、卒業式にみんなで大きな声をあげて歌った「仰げば尊し」、そして、このうえなく優しい大好きな母の微笑が次々と眼前に浮かんでは消えていく。

 最後までかけることができなかったあの子への言葉もまた、もう一度大切に抱きしめ直してみた。
君のきれいでまっすぐな瞳を、僕ははにかんでしまって長く支えることができなかったよ。今はそれがちょっと悔しいな。今度会ったら思い切って話しかけてみるよ。その時は最後まで聞いてくれないか?今夜のこの戦いのことを。俺も戦友達も、誰にも恥ずかしくない働きをしたんだからね。

 限りない力を持った波が、繊細で優しい心静まる旋律を奏でながら、まるであやすように体をゆっくりと揺らしてくれる。いとおしい海に抱かれて空を仰いだ刹那、夜空を吹き払うように突然現れた神々しいほど純白に輝く日輪が、比嘉の瞳いっぱいに眩しく力強く広がった。

 さあ今だ、あの空へ駆け上ろう みんな待ってろ 俺もこれから行くぞ!

 闇を切り裂く水柱が閃光を発しながら高く上がって凄まじい轟音が海に響きわたり、艦艇は波に飲まれて沈んでいった。

 それは、挺身機雷攻撃隊の捧げた祖国と郷土への祈りの終焉を告げるかのように、七色の虹をまとって天へ凱旋する若い戦士達を悼む美しいレクイエムとなって、南の海原にどこまでも哀しく美しい余韻を広げていった。

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