さつま通信

2011年5月18日水曜日

第6章001:オレンジビーチ - スリーデイズメイビー


 ペリリュー周辺の艦艇群へ挺身機雷攻撃を実施せよとの命令が下り、沖 陽一兵長を長とする、糸満出身者ばかりの二十名の特別攻撃隊が編成された。

 中央高地帯の陣地から夜間密かに出撃し、北部ガドブス島の洞窟に隠されている機雷を目指そうと したが、西海岸の道は総て敵陣地に固められて突破は困難で、海岸陣地に接近する際の銃撃戦ですぐに三名が戦死し、夜間行動のために友軍から刺殺される危険性もあり、沖 兵長は熟考の末に隊員が海岸近くで分散して海に入り各個に現地洞窟での集合を目指すに決した。

 十七名の隊員は、それぞれが密かに海に入るとリーフを迂回するように北を目指した。潮騒の音と香りは故郷の糸満と何も変わらない気がしたが、時折夜空に打ち上げられる照明弾の青白い光と、通過してゆく艦艇のエンジン音がこれから大事に臨む若者達の胸に締め付けるような緊張を呼び起こすのだった。

 潜っては浮き、浮いてはまた潜る。探照灯の光の帯に捉えられないように細心の注意を払いながら、彼らは少しずつ北へと泳いでいった。

 攻撃隊の中に比嘉和平伍長もいた。パラオ方面に配属された際、同じ部隊に郷里の先輩である沖 兵長の顔を見た時はとても嬉しく、休憩時間に交わす言葉に遠く懐かしい遙かな故郷を思うのだった。同じ浜で遊び、同じ潮の流れで育った二人は、ハーレーの朝の喧噪や祈り、馴染んだサバニの感触と早い漁村の朝、そして奏でられていた琉球の旋律を全身でいとおしんだ。二人の家が隣同士であったことも、他の糸満出身者達よりも格別に親愛感をかき立てた。

 故郷の海の滑らかな輝きと、色鮮やかな祭の衣装の煌めくようなコントラストは、単に美しいだけではなく甘美でさえある夏雲の、完璧な純白の幻想的な流れと共に心深くに刻まれていた。

 地上を見下ろしている雄々しい雲の峰が、沖から重なり合いながら糸満に寄せてくる波を力強く祝福しているかのように感じられた夏の真昼。デイゴの花がニライカナイから吹いてくるような南風に揺れていたあの懐かしい日々の追憶は、軍務に勤しむ日々にかけがえのない安らぎを与えてくれていた。

 いとおしい故郷の家につながっているこの海は、今は敵の船をたくさん浮かべながら、フィリピンや台湾、そして故郷の沖縄を脅かしている。

 今夜の自分達の一撃に作戦全体の成否がかかっている。分散して海に入る前に、沖 兵長が力強く全員に言い切った言葉の決然とした響きを思い出しながら彼は夜の海をひたすら泳いでいた。

 青白く照らし出される夜の海面は、繰り返し襲ってくる台風の夜に、故郷の家から垣間見た稲妻を思い 出させた。デイゴの花が多く咲き乱れると、その年は台風がたくさんやってくるとの言い伝えを大人達が言い交わしていたこともまた、真紅の美しい花の色と一緒に脳裏に浮かんだ。

 時折口に入る潮の味は、まだ泳ぎを覚え立てだった子供の頃に、初めて足がつかない深みまで泳いだ時に慌てて飲み込んだ味と、彼の慌てぶりを振り返って笑った年上の子供達の笑顔を鮮やかに胸に呼び起こした。あの頃の波は、やわらかく、まるで好意をこめてなぶるように、からかうように、大きな力と奥深い懐で海の子らと心ゆくまで戯れてくれた。

 比嘉伍長はガドブス島のビーチに這い上がると、しばらく砂浜に伏せたまま休息し、元気を取り戻すと北部洞窟を目指してゆっくりと進んだ。見当をつけた洞窟へ用心深く接近して、先に着いていた沖 兵長の笑顔を見つけた時は嬉しくて目が僅かにうるむような気がした。

「比嘉、これからしばらく集合完了を待つぞ」 沖 兵長が夜目にも真っ白い歯をのぞかせて微笑むと囁いた。

 洞窟で体を休めながら待機していると、次々と人の気配が増えてきて、やがて十七名全員が集結を終えた。

 防水処理を施して携行した焼米と塩を各自が取り出して最後の食事を摂った。水筒から喉に流し込む水がとても美味く感じられて、みんな少し呆然とした表情を浮かべて互いの顔を見合っている。洞窟の入口に近い岩の隙間から、美しく流れ落ちるような満天の星々が優しく囁きかけるように輝いているのが見えた。思い出したように誰かが煙草を取り出すと、灯りが洩れないように手で用心深く覆いながら火を点けて吸い始めた。洞窟内には、寄せる波の音だけが静かに繰り返し響いていて、とてもここが激戦の真っ只中にある最前線の島だとは信じられない気がした。

 紫煙が漂う洞窟のそこここに黒くうずくまる機雷を見た時に、比嘉伍長は思わず胴震いするような興奮を覚えた。これで敵艦を屠るんだな。もうすぐ俺もろともに粉微塵にしてやるぞ。でも、俺のこの元気いっぱいの体が、あとしばらくしたらこの世から無くなるのか?何か現実感が湧いてこない困惑を覚えた伍長は、携行した小さなハンマーの硬い手触りをあらためて確かめた。これで信管を思い切り叩いて吹き飛ばしてやる。なんとかして発見されないうちに船の横っ腹にこの機雷を着けないと。

「洞窟周囲の罠線と鳴子は準備完了だ。大休止後に目標へ前進するから、各自、体の手入れを怠るな」沖 兵長の声が低く洞窟内に響いた。

「みんな それまでに煙草と水を思う存分にな」部下をいたわるように彼は静かにそう付け加えた。

 体も乾いてきたし少し眠ろうとして比嘉伍長は瞳を閉じてみた。

 瞼の奥に実家での食卓が浮かんできた。神事の後で親戚が集まって、酒が進むといつのまにか奏でられ始めた蛇皮線の音に、やおら立ち上がって舞い始める大人達の楽しげな様子がありありと思い出された。あの頃は、自分もいつか大人になったら、あんなふうに舞うのだろうかと子供心に思っていた。

 パラオやハワイ、そしてフィリピンにも、多くの人々が働きに出て行ったけれど、比嘉家は昔ながらの海人として生きていた。琉球に多くの征服者達がやってくる時代の、おそらくはずっと以前から彼の祖先達が、恵み多い南のおおいなる海原を相手にそうやってたくましく生きてきたように。

 祭の夜に、辻々に集まっていた同じ部落の女の子達のことも胸に浮かんだ。友達同士でただ立ち話をするだけだったが、甘酸っぱい香りが何かの拍子に鼻をくすぐると、頬が思わず火照るような気がしてきて、こそばゆい気持ちを持て余しながら港の方から通りを抜けてくる潮風を急いで吸い込んだりしたものだった。

 軍指定の慰安所に彼は足を踏み入れたことはなかった。別に誰に義理立てするでもなかったが、そういう気持ちになんとなくなれないで今日までいた。

 本島を進発してペリリューに向かう前に与えられた最後の休暇を使って、故郷に出した最後の軍事郵便にも、和平は清い体のままでお国に一命を捧げますと書き記したのだった。遺言めいた物を肉親に送っておきたくなったのは、やはり何かの形で自分がこの世に生きた証を残しておきたいという気持ちの現れだったのかもしれなかった。

 気持ちが傾いた子もいないではなかったが、すべては戦いが終わってから考えようと思っていた。聖戦完遂がまず第一だ。大東亜の解放のために帝国は全力を挙げて戦っているのだから、こういう時代に生まれあわせた幸せを心身共にじゅうぶんに噛み締めながら、与えられた任務に最後まで勇気を振るって邁進しようと比嘉は思っていた。

 でも、死ぬってどういうことだろう?どこか別の国へ行くんだろうか?水平線の遙か彼方にあると遠い昔から言い伝えられているニライカナイへ向かうのか?そこでは、今夜一緒に出撃する同郷の戦友達と共にずっと過ごせるのかな?俺が写真でしか知らない、ご先祖様達とも会えるんだろうか?会ってもはたしてお互いがわかるのかな?どうだろう?よくわからない。無我夢中で敵を爆砕した後で、砕け散った俺の魂はどこへ駆け昇っていくのだろう?死ぬ時ってすごく痛いのかな?いや、一瞬で呼吸ができなくなるはずだから平気だ。呼吸ができないってどんな感じかな?小学校の頃に一度溺れたけれど、あんなふうなんだろうか?

 あの時は、夜の海でどんどん沖に泳いでいく長兄を見ていたら置き去りにされたようでとても寂しくなってしまい、思わず後を追おうとして溺れてしまった。沈みながら必死にもがいて二度ほど水を飲んだ時はとても苦しかったけれど、不意に眠気がさしたような気がしたと思ったらフッと気持ちよくなった。

 砂浜から見ていた次兄が異変に気づいて必死で泳いできて素早く引き上げてくれなかったら俺はあの時に死んでいたんだ。金色に輝く月が海を照らしてくれていなかったら見つけてもらえなかっただろう。コバルトブルーの海を闇が覆い隠そうとする時にいつも、月は慈しむような光を海に投げかけてくれた。

 二人の兄達は、スラバヤ沖海戦とガダルカナル島でそれぞれ行方不明になったままだ。もう一度だけでも三人揃って顔を合わせたかった気がするが、戦時下とてどうすることもできない。

 でも、一緒に行く戦友達の中には、生まれた時から両親がいなくて祖父母に育てられた者や、里子に出されて育った者もいるんだから、自分ばかりが兄達を恋しがってもいられない。なんといっても十七名が一緒に戦うんだし、みんなが家族みたいなものなんだから。

 潮騒のリフレインに戦友達の寝息が重なっていくのを耳の奥で聞きながら、比嘉はいつしか眠りに落ちていった。

0 件のコメント:

コメントを投稿